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幌延町史跡標柱等について

幌延町史跡標柱等の位置

 幌延町の史跡標柱や学校跡地(記念碑)などをまとめたマップを作成しています。
 未掲載部分の情報は、随時更新します。
  • 幌延町史跡標柱位置マップ
  • 幌延町遺跡マップ
  • 幌延町立学校マップ

上幌延小学校跡(幌延町教育発祥之地 碑、昭和天皇陛下お手播きの唐松)

幌延町教育発祥之地 碑

幌延町教育発祥之地 碑

所在地/幌延町上幌延98番地
 
・ 幌延町教育発祥之地 碑
   1981(昭和56)年10月10日 建立

【沿革】 
・ 上幌延小学校
  1900(明治33)年
   法華宗農場の私学校として発足 開校
  1902(明治35)年
   幌延第三簡易教育所(公立学校)に昇格
  1904(明治37)年 幌延第二簡易教育所と改称
  1908(明治41)年 幌延第二教育所に昇格
  1911(明治44)年 幌延第二尋常小学校に昇格改称
  1915(大正 4)年 上幌延尋常小学校と改称
  1923(大正13)年 新校舎落成式挙行
  1939(昭和14)年 保護者会設立
  1941(昭和16)年 上幌延国民学校と改称
  1947(昭和22)年 上幌延小学校と改称
           父母と先生の会創立
  1948(昭和23)年 校舎全焼
  1949(昭和24)年 新校舎落成式挙行
  1956(昭和33)年 校地拡張、グラウンド開き
  1965(昭和40)年 電話架設、便所新築、理科飼育池完成
  1966(昭和41)年 校舎内部大改造
  1967(昭和42)年 体育館落成
  1981(昭和56)年 閉校記念の集い挙行、記念碑校庭に建立
  1982(昭和57)年 閉校

 明治33年10月20日に初めて法華農場の私立学校として建設、この地に移民70戸の入植、同時に農場管理人山本日聡氏は児童教育の捨て置き難きを思い私立学校を設け、教師に農場医師平邑佐太郎氏をあて、その維持に努められました。産士東6線北1号8番地に位置する。現在の上幌延駅前。
  
・ 「昭和天皇陛下お手播きの唐松」 (記念板より)
 この唐松は、当時、摂政の宮であった昭和天皇陛下が、大正11年7月8日から23日まで、北海道行啓のため来道され、これを記念として札幌真駒内種畜場にて、自らの手で唐松の種を播かれました。大正14年5月、「唐松のようにすくすくと育ってほしい」との願いを込めて全道の小学校に苗木を5本ずつ配られました。現存する昭和天皇陛下お手播きの唐松は数が少なく、上幌延小学校跡地にある唐松は5本とも存在する貴重な歴史的樹木であることから、ここに記念板を設置いたします。
平成27年11月 幌延町長 野々村 仁
 
  • 昭和天皇陛下お手播きの唐松 記念板
    昭和天皇陛下お手播きの唐松 記念板
  • 昭和天皇陛下お手播きの唐松
    昭和天皇陛下お手播きの唐松
  • 上幌延小学校
    上幌延小学校写真

幌延小学校

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幌延小学校(現在)

所在地/幌延町東町25番地

 明治32年、開拓の鍬が下されてから遅れること4年、明治36年、本願寺農場主任西田三郎氏が発起人となり、当区内の人々とともに、字ウブシ東2線27番地に自らの力によって校舎を建て、多屋僧侶が臨時教師として発足しました。校舎は、平屋造り屋根は柾葺で、大変がっちりとした建物であった。しかし、校舎までの道は、夏は草木が茫々と繁り、冬は積雪が深く、児童の通学は大変困難でありました。

【旧校舎】
 幌延小学校旧校舎は、現在の幌延町役場庁舎の場所にありました。昭和57年に6校(幌延小、 浜里小、下沼小、上幌延小、安牛小、雄信内小)が統合して、新しい幌延小学校誕生しております。また、同年度に新校舎が落成し、7月に移転をしております。現在の幌延小学校校舎です。
  • 写真
  • 写真
    幌延小学校(旧校舎)

幌延中学校

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幌延中学校(現在)

所在地/幌延町字幌延102番地

 昭和22年、新学制の公布により発足する。当初4学級の認可であったが、校舎は小学校に仮住居であったので、1年生2学級、2・3年生複式1学級の3学級編成でした。借用したうちの1教室は、小学校低学年の授業があわった放課後に使用していました。

【旧校舎】
 幌延中学校の校舎は、現在の特別養護老人ホームこざくら荘の場所にありました。昭和57年に3校(幌延中、下沼中、浜里中)が統合して、新しい幌延中学校が誕生しておまります。また、昭和60年度に新校舎が落成し、11月に移転をしております。現在の幌延中学校校舎です。
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    幌延中学校(旧校舎)

問寒別小中学校

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問寒別小中学校(現在)

所在地/幌延町字問寒別130番地

 明治38年、遠藤椛太郎、玉井留三郎の2氏が、名寄より天塩に下る川船で、問寒別南に移住し開墾したことに始まり、その後、入居者が増加した。
 明治42年には戸数48戸になり、就学適齢児童も増加したので、小学校設置の計画がなされ、翌春3月部落総出で校舎建築にあたり、木材の伐り出し、搬出、手作業による製材、建築と汗を流し、7月には木造柾葺き平屋1棟の校舎が完成。幌延第二教育所付属「トイカンベツ特別教授所」として開校しました。

【旧校舎】
 問寒別小中学校の校舎は、現在と同じ場所にありました。昭和55年に3校(問寒別小中、中問寒小中、豊神小中)が統合して、新しい問寒別小中学校が誕生しております。同年度に新校舎が落成し、移転をしております。現在の問寒別小中学校校舎です。
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    問寒別小中学校(旧校舎) 1954年

音類竪穴群遺跡

音類竪穴群遺跡

音類竪穴群遺跡標柱

所在地/幌延町字浜里

 幌延町に人が住み着いたのは、今から約5,000年前にさかのぼった縄文時代の初めころと言われております。それらは、大昔の人たちが住んでいた住居跡や当時使われていた土器が発見されたことにより分かっております。
 北海道には、たくさんのアイヌの人たちが暮らしており、みんなで力を合わせて暮らしていました。幌延町浜里(音類竪穴群)で、発見された約800軒の竪穴住居跡やチャシ跡もアイヌの人たちの祖先のものと考えられています。

※ 社会科副読本より引用

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    音類竪穴群
  • 画像
    竪穴式住居

下サロベツ駅逓所跡

下サロベツ駅逓所跡標柱

下サロベツ駅逓所跡標柱

所在地/幌延町字浜里
1907(明治40)年〜1927(昭和2)年

 下サロベツ駅逓所は天塩郡幌延村字下サロベツに、明治40年(1907年)4月12日に設置されました。廃止は大正15年(1926年)3月6日〔北海道庁公報〕、同年3月10日〔告示177号〕限りです。下サロベツ駅逓所はウブシ駅から2里23町(約10.3km)、天塩駅から5里24町(約22.1km)のところにありました。
※ 1里=3.9km、1町=109m


  • 写真
    下サロベツ駅逓所
  • 写真
    平面図

下沼小中学校跡

下沼小中学校跡(閉校記念碑)

下沼小中学校跡(閉校記念碑)

所在地/幌延町字下沼270番地

【沿革】
・ 下沼小中学校
  1907(明治40)年 温内簡易教育所 開校
  1917(大正 6)年 温内尋常小学校と改称
  1924(大正13)年
   土地の寄付を受け新校舎竣工し移転  
  1925(大正14)年 下沼尋常小学校と改称
  1932(昭和 7)年 児童保護者会設立
  1938(昭和13)年 勤労教育研究学校に指定
  1940(昭和15)年 音類特別教授場付属する
  1941(昭和16)年 下沼国民学校と改称
  1943(昭和18)年 校舎増改築
  1947(昭和22)年 下沼小学校と改称
  1949(昭和24)年 管内施設助成学校指定
  1950(昭和25)年 幌延中学校下沼分校を併置
  1952(昭和27)年 下沼小中学校と改称
  1956(昭和31)年 移転新築
  1964(昭和39)年 冷害給食、ミルク給食始まる
  1965(昭和40)年 バックネット設置
           屋体、増築教室落成式
  1971(昭和46)年 体育用具格納庫完成
  1982(昭和57)年 卒業式並びに閉校式・惜別式開催
           閉校

 明治32年、山田権左衛門氏が入植し開拓に着手、その後現在の通称追分からその北部にかけて開拓者の数が増し、37年には戸数37戸となりました。そこで有志が39年に下サロベツ西7線北17番地に木造平屋建1棟を学校として建設されました。

 
下沼小中学校

下沼小中学校写真

オトンルイ駅逓所跡

オトンルイ駅逓所跡標柱

オトンルイ駅逓所跡標柱

所在地/幌延町字浜里
1900(明治33)年〜1929(昭和4)年

 オトンルイ駅逓所は天塩郡沙流村字オトンルイに、明治33年(1900年)2月〔駅逓協会報〕、明治32年3月24日〔駅逓所台帳〕に設置されました。廃止は昭和4年(1929年)6月28日〔北海道庁公報告〕、同年6月30日限り〔告示第762号〕です。このオトンルイ駅逓所は天塩駅から3里8町(約12.5km)、稚咲内駅から3里(約11.7km)のところに置かれました。
 ※ 1里=3.9km、1町=109m

浜里小中学校跡

浜里小中学校跡

浜里小中学校の趾 碑

所在地/幌延町字浜里102番地
 
【沿革】
・ 浜里小中学校
  1949(昭和24)年 音類小学校認可 開校
           幌延中学校音類分校併置 開校
  1952(昭和27)年 音類中学校独立
  1953(昭和28)年 音類中学校校舎増築
  1960(昭和35)年 浜里小学校、中学校と改名
  1963(昭和38)年 給食室増築
  1967(昭和42)年
   体育館、中学校理科室、小学校校舎改築落成
  1973(昭和48)年 中学校学級数増
  1974(昭和49)年 町研教育研究大会会場
  1976(昭和51)年 学校ミニ公園完成、学校農園増築
  1978(昭和53)年 学校統合問題懇談会
  1982(昭和57)年 閉校、記念碑建立

 明治20年頃から仮県道稚内線として、天塩から稚咲内に通じる浜道路があり、人馬の従来がありました。明治33年に駅逓が配置され、土地は季節的放牧場として利用40年頃から下田牧場(南)、水口牧場(北)が経営されており、大正5年頃まで音類教授場(南)で子弟の教育をしていました。昭和7年豊徳小学校の分校として出発し、豊富分村により、以降幌延小下沼小の分校となりました。

 
浜里小中学校

浜里小中学校写真

大曲駅逓所跡

大曲駅逓所跡

大曲駅逓所跡標柱

所在地/幌延町元町
1911(明治44)年〜1927(昭和2)年

大曲駅逓所は天塩郡幌延村字大曲に、明治45年(1912年)1月16日〔北海道庁公報〕、明治44年12月28日〔告示第22号〕に設置されました。廃止は大正15年7月30日〔北海道庁公報〕、同年7月31日限り〔告示第659号〕となっています。この大曲駅逓所は天塩駅から5里22町(約21km)、オナブナイ駅から4里18町(約17km)、下サロベツ駅から2里15町(約9.4km)の位置にあった。
写真

平面図

幌延村外1ヶ村戸長役場跡

幌延村外1ヶ村戸長役場跡

幌延村外1ヶ村戸長役場跡標柱

所在地/幌延町元町
1909(明治42)年〜1941(昭和16)年

 幌延村が天塩村外2ヶ村戸長役場から独立して、幌延村外1ヶ村戸長役場が設置されたのは明治42年であり、役場の設置場所は今の元町であります。
 戸長役場とは、徳川時代の村役人の制度が明治5年に廃止されて、新たに生まれたものであります。明治12年になって、郡区町村編成法が北海道に適用され、多くの町村に戸長役場が設置され、1町村1役場ではなく数町村に1戸長という状態でありました。戸長は北海道庁の任命で、議会ではなく議決機関といえば総代人であり、総代人は1町村2名で選ぶ者も、選ばれる者も一定の財産を有していなければならなかった。議決機関といっても名ばかりで、戸長の諮問機関であり、村予算に対する決定権はなく、単なる諮問にとどまった。決定権は戸長にあり、戸長は支庁長に伺いをたてて決定するという極めて特異な自治でありました。

写真

戸長役場

天塩川歴史紀行「松浦武四郎」看板

天塩川歴史紀行「松浦武四郎」看板

天塩川歴史紀行「松浦武四郎」看板

所在地/幌延町元町 総合スポーツ公園内

  松浦武四郎は、北海道の名付け親と言われております。江戸時代の終わりから、明治にかけて活躍した探検家で、6度にわたり、蝦夷地(北海道)の探査を通じて、蝦夷地の詳細な記録を数多く残しました。また、蝦夷地のことに詳しい第1人者として、蝦夷地を「北海道(当初は北加伊道)」と命名しました。
 約160年前に天塩川を探検し、5回目の踏査時に丸木船で天塩川に分け入り、24日間の大調査の末、天塩日誌という探査記録を記しました。
 安政4年6月6日(旧暦)に出発した一行は、河口から川筋をたどる形で、幌延、雄信内、中川と進み音威子府、美深を過ぎて名寄へと至りました。

※ ネットより引用

南沢小学校跡

南沢小学校跡

南沢小学校跡

所在地/幌延町字北進

【沿革】
・ 南沢小学校
  1916(大正 5)年 
   上幌延尋常小学校付属江辺頃別特別教授場 開校
  1917(大正 6)年 幌延尋常小学校に所属変更
  1921(大正10)年 南沢特別教授場と改称
  1929(昭和 4)年 南沢尋常小学校に昇格
  1933(昭和 8)年 2学級編成
  1941(昭和16)年 南沢国民学校と改称
  1943(昭和18)年 単級となる
  1947(昭和22)年 南沢小学校と改称
  1961(昭和36)年 校舎新築落成
  1972(昭和47)年 廃校

 明治45年、当時部落個数42戸を有し、学齢児童数22名に達したため、父兄としても子ども教育のため、学校の必要性に迫られていました。当時の村の財政状況の中、設置することができず数年過ぎても好転せず、部落民は自分たちの学校は自分たちの手でとの合言葉により、お互いに金品を出し合い、一致協力し仮校舎が完成したのが、大正5年である。その余力で、校具、教具も整え、沙流村下エベコロベツ原野一円を通学区域とし、開校することができました。

 幌延町の書道家であります「金田心象先生」が卒業した学校です。
 
  • 南沢小学校
    南沢小学校写真(新校舎)
  • 南沢小学校
    南沢小学校写真(旧校舎)

安牛小学校跡

安牛小学校跡

安牛小学校跡

所在地/幌延町字開進176番地

【沿革】
・ 安牛小学校
  1918(大正 7)年
    上幌延尋常小学校付属 雄信内特別教授場 開校
  1920(大正 9)年 第1回運動会、第1回学芸会
  1925(大正14)年
   上幌延尋常小学校安牛特別教授場と改称
  1928(昭和 3)年
    尋常小学校に昇格(安牛尋常小学校)
  1939(昭和14)年 校舎新築
  1941(昭和16)年 安牛国民学校と改称
  1947(昭和22)年 安牛小学校と改称
  1953(昭和28)年 校舎新築落成
  1960(昭和35)年 町制施行により町立安牛小学校と改称
  1967(昭和42)年 屋体新築落成
  1982(昭和57)年 閉校

 開拓当初は、上幌延に開設された法華宗農場私立校へ通学するが、昭和24年頃、教育委員会の指定により、通学区が変更となり、安牛小学校への通学が大半を占めるようになりました。通学路は、非常に悪く、夏は泥道で、冬は道らしきものもなく、大変苦労したといわれております。主要な道路が除雪されるようになったのは、昭和35年頃からであり、町道まで除雪されるようになったのは昭和50年からであります。

 
安牛小学校

安牛小学校写真

雄信内小学校跡

雄信内小学校跡(閉校記念碑)

雄信内小学校跡(閉校記念碑)

所在地/幌延町雄興

【沿革】
・ 雄信内小学校
  1937(昭和12)年 雄信内尋常小学校 開校
  1941(昭和16)年 雄信内国民小学校と改称
  1947(昭和22)年 幌延町立雄信内小学校と改称
  1948(昭和23)年 1学級2教員配置となる
  1951(昭和26)年 体育遊具設置
  1958(昭和33)年 新校舎落成
  1959(昭和34)年 2学級3教員配置となる
  1962(昭和37)年 教室にテレビ設置
  1963(昭和38)年 2学級2教員配置となる
  1964(昭和39)年 3学級4教員配置、学校に電話設置
  1967(昭和42)年 屋内体育館落成
  1972(昭和47)年 学校,HBCテレビで生放送される
  1978(昭和53)年 2学級3教員配置となる
  1982(昭和57)年 閉校

 明治36年頃、タンシャモナイに定住がはじまり、ほとんどの家が船を持ち、対岸のタツネウシの幌萌小学校に通学していました。昭和7年、天塩川に鉄骨の吊橋が完成し、天塩方面への交通の便を得るようになりましたが、その当時は、まだ、学校が設置されていなかったので、問寒別、幌延、天塩町啓徳などの学校に通学していました。昭和11年に、再三にわたる陳情が功を奏し、学校設置の認可得て、翌12年4月1日に開校されることとなりました。
 
雄信内小学校

雄信内小学校写真

問寒別渡船場跡

問寒別渡船場跡標柱

問寒別渡船場跡標柱

所在地/幌延町字問寒別
大正初期〜1960(昭和35)年
 
 天塩・幌延両村地内町村道下コクネップ、問寒別停車場区域内である。取扱人手当は大正14年度45円、大正15年度ち昭和2年度は60円が支給されている。(赤レンガマイクロ室資料)
 天塩町下国根布より、問寒別停車場に通じる現道道問寒別停車場下国根布線で、大正初期御料農業地出張所の命により渡船場を設置、昭和35年、問寒別橋が架設されて廃止となりました。

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問寒別簡易軌道始点跡/終点跡

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軌道事務所

所在地/幌延町字問寒別(始点)
    幌延町字上問寒(終点)
1930(昭和5)年〜1971(昭和46)年

 簡易軌道問寒別線は、北海道第2期拓殖計画に基づいて昭和4年7月に起工し、翌5年9月に竣功しました。工事を請負したのは札幌市の菊池常夫氏で、当初は問寒別市街を起点とし、終点はいまの上問寒十五線付近で13.38kmでありましたが、のちに駅逓所付近(かつての豊神小学校の上手)まで約500mが延長されました。軌条は6kg/mで、トロリーを馬で曳くいわゆる馬鉄線でした。
 明治末期の開拓以来、道路の確保に苦慮していた地域住民にとっては、この殖民軌道は命の綱であり、経済を支える大動脈としての役割を果たしていました。
 昭和15年、上問寒二十線にて日本白金クローム鉱業株式会社が砂クローム鉱の採取を開始しました。終点の十五線から二十線までの4.3kmを延長し、翌年9月までクローム鉱の輸送に使用しました。
 昭和16年、北海道庁と天塩鉱業株式会社の間に貸与契約が成立したため、天塩鉱業株式会社が問寒別線の経営にあたりました。この時点ではまだ馬鉄の段階でしたが、昭和17年、天塩鉱業株式会社は軌道の輸送力向上を目指し、蒸気機関車とガソリンカーを導入しました。営業路線は、問寒別市街から上問寒二十線の間を運行おり、問寒別地区の開拓事業が進むにつれ、沿線の農家が増え、乗降人員、出荷される農作物や農業関連資材の輸送量も増加。また、幌延鉱業所の石炭や北大演習林から伐り出される木材等が加わり、軌道は地域の大動脈として花形的な存在となった。

※ 下記画像については、簡易軌道写真帖引用


  • 写真
    問寒別簡易軌道始点跡標柱
  • 写真
    問寒別簡易軌道終点跡標柱
  • 図面
  • 写真
  • 写真
    簡易軌道 乗車券
  • 写真
    村営軌道営業開始記念
  • 写真
    雪印乳業問寒別工場前(1970年頃)
  • 写真
    問寒別市街構内(1955年頃)
  • 写真
  • 写真
    運行最終日(1971.5.31)
  • 写真
    機関庫(1970年頃)
  • 写真
    木造橋が主流であった 8線〜16線(1957年頃)
  • 写真
    20線(1955年頃)

中問寒小中学校跡

中問寒小中学校跡

中問寒小中学校之趾 碑

所在地/幌延町字中問寒170番地

【沿革】
・ 中問寒小中学校
  1911(明治44)年
   幌延第二尋常小学校付属豊神特別教授所 開校
  1914(大正 3)年 教授所移転
  1916(大正 5)年 校舎落成
  1917(大正 6)年 豊神別尋常小学校となる
  1923(大正12)年 校舎増築
  1925(大正14)年 上問寒別尋常小学校と改称
  1929(昭和 4)年 新新校舎落成挙行
  1941(昭和16)年 上問寒別国民学校と改称
  1942(昭和17)年 新校舎落成式挙行
  1946(昭和21)年 ケナシポロ分教場設置
  1947(昭和22)年 上問寒別小学校と改称
           問寒別中学校上問寒別分校設置
  1952(昭和27)年 上問寒別中学校として独立
  1955(昭和30)年 新校舎落成式挙行
  1957(昭和32)年 中問寒小学校、中問寒中学校と改称
  1965(昭和40)年 冬期豊栄分校開設
  1966(昭和41)年 体育館落成式挙行
  1973(昭和48)年 校庭体育施設整備
           温食給食開始
  1980(昭和55)年 閉校式並びに惜別式挙行
           閉校
  
中問寒小中学校

中問寒小中学校写真

豊栄小学校跡

豊栄小学校跡

豊栄小学校跡

所在地/幌延町字中問寒

【沿革】
・ 豊栄小学校
  1946(昭和21)年 上問寒別国民学校ケナシポロ分校として開校
  1947(昭和22)年 豊栄小学校に昇格
  1948(昭和23)年 新校舎新築落成式挙行
  1965(昭和40)年 廃校式挙行、閉校

 豊栄地区は上問寒別小学校の通学区域であったが、冬期間の通学は大変困難を感じ分教場を要望する声が強かった。昭和20年淡川留萌支庁長が視察に来たとき、藤井春吉氏、北大演習林派出所長猪口正巳氏などが学校設立を陳情し、翌年藤井氏他16名が村に請願書を提出し 上問寒別小学校ケナシポロ分教場として認可されました。校舎は、北大演習林も造材事務所を永久借用することで改造し開校しました。

 
  • 豊栄小学校
    豊栄小学校写真
  • 写真

トイカンベツ駅逓所跡(8線)・(15線)

トイカンベツ駅逓所跡

トイカンベツ駅逓所平面図

所在地/幌延町字中問寒
1913(大正2)年〜1943(昭和18)年(8線、15線)

 トイカンベツ駅逓所は初め天塩郡幌延村字トイカンベツ8線65番地に設置されました。設置は大正2年(1913年)12月13日〔北海道庁公報〕、同年12月10日〔告示第794号〕であった。昭和7年(1932年)12月23日〔北海道庁公報、告示第1720号〕には、天塩郡幌延村字上問寒別市街地大通16・18・20番地に移転しています。〔駅逓協会報〕
 このトイカンベツ駅逓所は昭和18年(1943年)8月28日〔北海道庁公報〕、8月31日限り〔告示第1147号〕廃止されましたが、廃止時の所在地は天塩郡幌延村字豊神でした。この駅逓所から最寄りのオノブナイ駅までは5里28町(約22.5km)でした。

※ 下記画像については、一部簡易軌道写真帖引用



  • 写真
    トイカンベツ駅逓所跡(8線)
  • 写真
    トイカンベツ駅逓所跡(15線)
  • 写真
    馬鉄(問寒別軌道)
  • 写真
  • 写真
    倉庫併設の待合所 4線(1965年)
  • 写真

豊神小中学校跡

豊神小中学校跡

豊神小中学校之趾 碑

所在地/幌延町字上問寒227番地
 
【沿革】
・ 豊神小中学校
  1912(明治45)年 上問寒別(中問寒)小学校通学
  1928(昭和 3)年
    14線大岩重蔵氏宅で冬期間出張事業を行う
  1929(昭和 4)年
   15線堀田光次郎氏倉庫で冬期間山田義正氏が出張
   事業を行う
  1932(昭和 7)年 豊神尋常小学校 開校
  1941(昭和16)年 豊神国民学校と改称
  1947(昭和22)年 豊神小学校と改称、PTA会発足
  1948(昭和23)年 上問寒別中学校通学生委託事業を行う
  1949(昭和24)年 問寒別中学校豊神分校設置 中学生授業実施
  1951(昭和26)年 豊神中学校校舎本校に併置新築落成
           上豊神分校独立 上豊神小学校と改称
  1952(昭和27)年 問寒別中学校豊神分校独立
           豊神中学校 開校
  1957(昭和32)年 校舎増築(教室2、特別室2)
  1962(昭和37)年 給食室新築
  1968(昭和43)年 体育館落成式典挙行
  1980(昭和55)年 閉校

 明治末までは、有井農場事務所で寺小屋式の教育であったが、明治45年以降児童は6〜8kmある豊神別特別教授所(中問寒小学校)に通学していました。昭和3年に、14線大岩重蔵氏宅で冬期間、上問寒別小学校の出張授業が行われました。昭和4年から7年にかけ、冬期間、堀田光治郎氏倉庫を借り受け出張授業を行い、昭和7年に豊神小学校が開校しました。
 
豊神小中学校

豊神小中学校写真

上豊神小学校跡

上豊神小学校跡

上豊神小学校跡標柱

所在地/幌延町字上問寒
(北海道大学天塩研究林内)

【沿革】
・ 上豊神小学校
  1950(昭和25)年 
    豊神小学校上豊神分教場として開校
    炭鉱の建物で授業を行う
  1951(昭和26)年 上豊神小学校として認可
  1952(昭和27)年 開校式挙行
  1953(昭和28)年 新校舎落成挙行
  1957(昭和32)年 新校舎完成
  1958(昭和33)年 PTAにより通学道路つけ
  1959(昭和34)年 閉校

 上問寒は農村として開拓が行われていましたが、昭和15年砂のクロームの採取が行われ、昭和20年には農家41戸、クローム関係者が121戸いました。昭和21年石炭の発掘が始まり、昭和24年には、関係者98戸になりました。

1998年の写真提供:ワラベンチャー問寒クラブ
  • 上豊神小学校跡
    上豊神小学校 跡(1998年)
  • 上豊神小学校跡
    上豊神小学校 跡(1998年)
  • 上豊神小学校跡
    上豊神小学校 跡(2018年)
  • 上豊神小学校跡
  • 上豊神小学校跡
  • 写真

幌延炭鉱跡

写真

幌延炭鉱跡地標柱

所在地/幌延町字上問寒
(北海道大学天塩研究林内)
1度目:1906(明治39)年〜1911(明治44)年
2度目:1946(昭和21)年〜1958(昭和33)年

 幌延炭鉱という名が用いられたのは2度ありました。最初は明治32年9月、大地積貸付を受けた本願寺農場の出願者長門勇輔氏が同年4月に鉱区57万8,000坪を取得して、幌延炭鉱と名付け開坑準備に入った。この炭鉱は明治42年試掘を開始したが、露天掘りであり、2年後の明治44年に操業をやめることとなりました。2度目は昭和21年10月に開坑し鉱業権者は幌延鉱業株式会社となり、石炭の採掘が始まりました。昭和22年には20線から約3kmの炭鉱線を建設(延伸)し、石炭の輸送を開始しました。
 幌延炭鉱は中小炭鉱で、出炭量はそれほど多くはなかったが、炭質は良質で、白煙炭(または薄煙炭)といわれ、ばい煙が少なく家庭用暖房炭として天北炭の中でも最も優秀なものでありました。
 昭和26年より斜坑採炭の計画を立て、小学校まで新設され、昭和27年より着手、昭和33年まで経営したが、まもなく経営不振に陥り閉山の止むなきに至った。

  • 資料
    当時の地図(天塩研究林提供)
  • 写真
  • 写真
    幌延炭鉱跡地(2020)
  • 写真
    軌道敷設折返しポイント跡地

エベコロベツ線(幌沼線)

【エベコロベツ線(幌延線)】
所在地/延町1条南1丁目(始点)
    豊富町字豊幌(終点)(北沢停車場)1933年まで
             (上福永停車場)1934年延伸    
1929(昭和4)年〜1935(昭和10)年

【幌沼線】
所在地/延町1条南1丁目(始点)
    稚内市声問村沼川3963(終点)
1936(昭和11)年〜1948(昭和23)年
※ 幌延側の廃止に伴い、沼川線に改称

 幌延簡易軌道エベコロベツ線は国鉄幌延駅前を起点とし、昭和4年に竣工し、熊越峠に沿って北沢(豊幌)までを軌道で結び、鉄道馬車を運行したものであり、幌延線とも呼ばれ全長13.5kmでした。
 この路線は当初沼川まで延長される計画でしたが、エベコロベツ線の延長は中止されました。その後、昭和7年・8年に上福永から沼川まで敷設され沼川線が運行。村ではこれに対し道庁に強力な陳情を行い、昭和9年には上福永から北沢まで延伸され、幌延から沼川まで、34.9kmの軌道となり、昭和11年に幌延線と沼川線が合併して、路線名を幌沼線と改称しております。
 旅客輸送はトロッコ2台を連携して馬に曳かせて、午前と午後の2往復運行。農業資材や農産物の運搬に全てこの軌道を利用しており、中には、運行券を購入しトロッコを借上げて、幌延市街まで自分の馬で曳いていました。よって、各停車場は複線となっており、いつでも予備トロッコが配置されていました。
 昭和23年に熊越峠の難所が崩落するなど利用不可能な状態となり、幌延から北沢までの区間が廃止され、路線名を沼川線に改称しております。昭和27年には幌延から北沢区間の軌道を撤去し、今では路線の跡もわからない状態となっています。
 昭和25年に北沢から有明間の廃止、昭和39年に有明から沼川間の廃止に伴い、全線廃止となっています。

最終更新日:2021年07月06日

発信元: 教育委員会